私の短文、意見、エッセー集/Essays

折にふれて書いた短文集です。環境問題はかっての激甚な公害と違い自然観、社会観など、それを眺める人々の個人的なものの考え方が影響するようです。自然科学が原点の私は、私なりの感慨を持って環境問題を眺めています。またどのような環境保全が望ましいか、技術で何が出来るかいつも自問しています。世に、同じ考えの方は少なくないはずです.皆様と輪を拡げたいと念じております。(99-7-15 YI)

2005年1月4日

2004年、私の総括

2004年も皆様のご協力で、エネルギー、農業問題など、「有限地球観」に基づいた年来の主張を、様々な場所、機会で展開することが出来ました。石油価格がバーレル50ドルを超え、さすがに日本人も真剣になったようです。しかし、今もこれは一過性と多くの識者は言いたがります。これは間違いです。ゆえに私は繰り返します。日本は先進工業国の中でも特に危ない、生存基盤が脆弱な国です。「物」は勿論ですが、「心も食」も自立しいないのです。「エネルギーも食料」も外国頼みです。しかも国際的に孤立しやすいのです。しかし日本人はもともと優れています。ただ今は残念ながら司令塔が無いのです。長年お欧米追従の「つけ」なのでしょうが、これからは「ノコギリ・カンナ型」でなく、問題可決型「WEHAB-P」が大事です

2003年1月元旦

石油文明の行方と日本

20世紀は石油の世紀といわれる。1908年のT型フォードに始まった大量生産型の20世紀型文明は石油あってのものである。石油がなければ今の文明は窒息するが、人は石油があるのが当たり前、空気のようにその存在すら気にしない。そして20世紀、特に後半の石油消費量はうなぎ登り1970年代の石油ショック時を除けば、京都議定書なども意に介しないように指数関数的な石油消費の増加には一向に歯止めはかからない。あたかも地球は無限であるかのように。

ところが頼みの石油も最近あまり発見されなくなった。勿論、中小の油田は今でも見つかるが、その規模小さく最近10年間の統計では、全世界の消費250億バーレルに対し4分の1程度しか発見されない(表1)。現在世界を支える中東の超巨大油田群は、殆ど1945年第二次世界大戦終了後に発見されたもの、今とは較べられないほど未熟な石油探査技術でこれら大油田群は発見されている。これからも、石油の供給が技術だけの問題ではないことが理解出来よう。近年石油が不足すれば市場原理が作動し、技術が進歩するから石油の供給には問題はないと、多くのエコノミスト、評論家が考えるようだが、それは見当違いと言うものである。国民はそのような根拠のない楽観論に惑わされると大変なことになる。

最近カスピ海周辺が話題で、確認埋蔵量は300億バーレルと報道されるが、これも問題解決にほど遠い。それは21世紀に入り、世界の石油年間消費量は表1の250億バーレルからさらに増え、今では280億バーレルとなっているからである。カスピ海の300億バーレルは一年分でしかない。これに対して中東の石油埋蔵量は一桁多い。アメリカがイラクに執心する理由がこれからも推測できよう。この国にはサウジアラビアに次ぐ世界第二位の石油埋蔵量がある。

石油は背斜構造と言う、馬の背のような地層の盛り上りに集積する。この地層内で天然ガス、油、水が比重に従って上から分布する。それが油ガス層で、あり、多孔質の岩石中に油、ガスの生成と共に地層に沿って上方移動した結果である。資源にとってこのような濃縮過程が大切である。しかも生成された油ガス層は一般に高圧であり、そこに井戸が掘られれば油ガスは油層内のガス圧でそこに更に集まり自噴するのである。これが油田における資源採取にとって非常に都合の良いことである。自ら濃縮する流体資源である、油ガス田は他の地下資源にない際だった特徴を持つのである。この事からも分かるように、油田において天然ガスと原油は不可分な関係にある。

従って天然ガスと石油を、専門家はあまり区別して考えない、探査技術も全く変わりはない。油田の探査は先ず背斜構造、地層の高まりを調べるが、これには人工的な弾性波を地下に送って反射波を見る、地震探査技術が活躍する。これは知られざる先端的な情報技術である。そして地層の高まりに向けてボーリングする。これらの技術は前にも述べたが、戦後中東で油田が次々と見つけた頃とは、比較にならないほど進歩している。それでも新しい大油田はなかなか見つからず、探す場所も殆どなくなった。そこで改めて言うが、地球は有限だから、いずれ石油の生産量には陰りが出てくる筈である。更に一般的に言えば、地球上の非再生的な資源は必ず無くなるのである。

ここでもう一つ重要なことがある。それは資源とは何かである。資源とは先ず濃縮されていること、大量にあること、そして経済的に採集出来るところにあるものを言う。これは全て経済性に関係しており、広く薄く分布するものは資源ではない。採集するに膨大なエネルギーを必要とするからである。太陽エネルギーが難しいのはそれが濃集していないからであり、宇宙太陽発電が実用化しないのは、その場所が宇宙だからである。海水ウランなども余りにも希薄で、濃集に膨大なエネルギーが必要となってくるからである。石油は資源として比類のない優れたものなのである。


THE WORLD PETROLEUM LIFE-CYCLE (October 22, 1998)
Richard C. Duncan and Walter Youngquist

ここに石油問題の技術的な核心がある。極限までに進歩した技術力を発揮する有望地がもう殆どなく、最近の探査活動は落ち穂拾いのようになっている。これが石油開発の現状なのである。繰り返すがこれも地球が有限だからで、この当然のことに人類は直面しているのである。カスピ海周辺も、今は「第二の北海(やや大き目の北海)」という評価に落ち着きつつある。残念ながら「第2の中東」はやはり無かった。今から数十年前に発見された、中東の超巨大油田群にいまも残るかなりの埋蔵量が、21世紀の現代人の最後の頼りなのである。

ペルシャ湾を囲む5カ国サウジアラビア、イラク、イラン、クエート、アブダビ首長国連邦は、かってテチス海とよばれる太古の海盆に位置した。中生代と呼ばれる今から2億年も前の地球温暖化時代は今より10度も気温が高かったが、そのとき生産された膨大な有機物が石油、天然ガスとなって残ったのである。これが中東である。そしてもう一つの特徴はこれら5カ国は皆イスラム圏にあることである。この地政学上の著しい特徴が石油問題にあるこのことを、日本人はもっと理解したい。

以上は、いわゆる在来型の石油と天然ガスのことだが、炭化水素資源にはその他、重質油など資源としては石油より経済性の低い、非在来型とよばれるものもある。C.J. Campbellはこれらも加えた全炭化水素資源の生産予測も行っている。下図であるが、これに見るとおり在来型、非在来型の全ての石油、天然ガス生産量は2010年過ぎから急速に減退するとしている。


在来、非在来型の全石油、天然ガスの生産量予測(C.J. Campbell 2002)

世界には、列強が介入する不安定な三極地帯がある。ペルシャ湾岸の中東、カスピ海を囲む中央アジア、そして南シナ海だが、いずれも石油資源の存在する地域であり、また石油搬出ルートに当たる。地政学的に直接間接に石油利権が絡んでいる。イラクが揉めるのもこの国がサウジアラビアに次ぐ、世界第2の石油埋蔵国だからであろう。一方、アフガニスタンは石油搬出ルートになる可能性がある。南シナ海は中東からの石油搬出ルートである。つまり日本、中国そして韓国の生命線である、マラッカ海峡があり所であり、また先閣列島などの海底石油の可能性がある地域をも含むのである。この先閣列島には日中が共に領有権を主張していることは説明を要しない。

何故それ程までに、各国が石油に執着するのか。それは石油が他のエネルギー源とは、較べものにならないほど優れているからである。先ず流体であること、エネルギー密度が高いことそして合成化学原料としても優れていることである。つまり現代文明の維持に欠かせない、際だって優れた良質の多目的資源だからである。このことは、石油無しの世界を想像すればが直ちに理解できるであろう。先ずジェット機などの航空機は飛ばなくなる。車も走らないなど運輸関係での石油の重要性は顕著である。そのためであろう、最近この分野の消費が急伸している。

そこで水素をと言う意見が出てくる。21世紀は水素の時代、車は水素を使った燃料電池で走らせればよい、二酸化炭素も出ないという。だがこのような意見を言う人の多くが水素を何から作るか殆ど述べない。最近は天然ガスから液体燃料を作る、いわゆるGTL(Gas to liquid)が話題だが、この液化にもエネルギーが必要でコストもかかる。更に天然ガスも石油同様の有限資源であることには変わりはない。バイオマスから作るアルコールを改質して水素を、という話もあるが、この原点には農業がある。例えば、現代のサトウキビ大規模栽培には農薬、耕作機械などが必要で、これにも大量の石油が欠かせない。このエネルギー栽培農業は、人間の食する食糧生産と正面から競合するのである。

原子力も解答からほど遠い。それはウランも有限な地球資源であり、鉱山での採掘、精錬から発電までのあらゆる過程で石油が使われる。しかも最後の放射性廃棄物の処置には、最低で一万年という「核のゴミ処置」問題がある。これに要するエネルギーの必要量などは見当もつかないことである。即ち、この原子力と言えども、石油など他のエネルギー資源にかなり依存しているのであり、原子力関係者が主張するように石油後の救世主として原子力に頼り切るわけにも行かない。

要するに石油文明は終焉に近づいており、それに代わる豊富な燃料も無さそうである。いずれ来る石油生産量の減退に今から備えなけらばならない。石炭から石油への変換時期には、かなりの年月がかかったが、この時はより便利で優れた燃料である石油への移行であった。21世紀はその逆により不便なものへの不本意な転換である。石炭が復活するかも知れないが、それには温暖化が加速される。原子力は増殖炉でないとエネルギー供給量から無理であろう。しかし「もんじゅ」の本格的な復活は技術面、国民のコンセンサスの両面で、未だ問題は多いようである。故に問題は深刻なのである。

最後に自然、再生的なエネルギーが残るが、これは量質ともに石油の代替えとはなりそうにない。結論的に人類は豊富な現代社会から決別する必要に迫られることになるのかも知れないが、それには現代社会の仕組みを、根底から変えなければならない。「新文明の創造」するほどの大改革となろうが、世界の中でも特にエネルギー基盤の脆弱な日本は、世界に先駆けて文明改革をしなければならない筈である。

ところが日本は今、市場主義のもと経済成長が当然と考えられている。しかしこれは間違っている。何故なら、有限地球において人類は無限の物的成長は望むべくもないからである。むしろ日本は率先して、ポスト石油文明をとはを模索する立場にあるのではないだろうか。日本の閉塞性を打破する最善施策がここにあるのかもしれない。橋、道路をもっと作ることがよいとも思っていけない。だからといって、燃料電池車がどんどん生産される社会を望んでよいわけでもない。このためであろう、過剰生産社会には未来がない、と思う人が増えてきたようである。

過剰生産を続けつつ、リサイクル、ゼロエミッション運動することの矛盾にかなりの人が気づき始めた。アジアで唯一、国際競争力比較(IMD)で10位以内(2002年は5位、日本は30位)のシンガポールでは、子供ですら3R(Reduce, Reuse, Recycle)をと言う。そして最も大事なRは、最初のRであると主張する。これもシンガポールは国家としての論理がしっかりしているからであろう。
だが日本も変わり始めた。最近の世論調査によると、日本国民の3分の2は「物の豊かさより心の豊かさ」を、と考えているそうである。これからは、この線に沿った基本戦略を樹立する必要がある。


幸い、去る2002年12月13日、自由民主党に新世紀文明国会議員懇談会(会長は森嘉朗前総理、中核は小野晋也衆議院議員)が発足した。余談になるが、私はこれにアドバイスする立場にある。小野晋也氏によるその趣旨を下記に引用する。これは同氏による国会議員への呼びかけの言葉である。この今後に期待したい。

 
昨年九月のアメリカにおける同時多発テロ事件以降、世界秩序が大きく揺らぎ、また、世界各地で、紛争やテロの拡大が憂慮されているところです。また、国内に目を転じましても、経済不振、異常な事件の続発、教育現場の諸問題等、国全体に活力が失われ、混迷の度を深めています。
 これら課題は、社会の基幹的価値に関して、社会構成員の間に存在すべき暗黙の合意が失われ、多くの人が戸惑い、迷い、立ち竦んでしまっている中から生じてきていることに思えてなりません。より具体的に言うならば、グローバル化の進展と共に、映像イメージを伴う様々な価値観がメディアを通して無秩序に飛び交う中で、日本国民が自分自身の主体性を失い、同時に人間として生きる存立基盤を失ってきつつある姿を反映しているものではないでしょうか。
「新世紀文明国会議員懇談会」では、森喜朗前総理を中心に、現代における様々な社会現象の奧にいかなる文明問題が潜んでいるかということについて、広く検討を行うと共に、真摯に論じ合う中で、この新世紀に私達は、新しい国際秩序、日本社会秩序を確立する方途を見出し、更に、この日本の国から二十一世紀地球社会に新文明を提案してゆくことを夢見るものです。

※会合開催は、当初月に二回程度、具体的問題から文明問題を論ずることの出来る方に講師としてお越し頂いて開催したいと考えています。

呼びかけ人
衆議院議員  大野松茂 奥山 茂彦 小野 晋也 谷畑 孝 小西 理 三ツ林 隆志 田村 憲久 鴨下 一郎 渡辺 博道 西川 京子
参議院議員  有村治子 世耕 弘成 森元 恒雄 山内 俊夫 木村 仁


WEHAB-P:持続可能な発展サミットでのアナン事務総長のメッセージWorld Summit on Sustainable Development(2002-9-4)
ヨハネスブルグで開かれた、持続可能な発展についてのサミットは、2002年8月26日からヨハネスブルグで開かれ9月4日に終了した。終りに当たってアナン国連事務総長は次の通り総括した。

World Summit on Sustainable Development, United Nations Secretary-General Kofi Annan today said the conference marked "a major leap forward" in teaming up the public sector, civil society, businesses and other key actors in the global fight against poverty.
Speaking to the press, the Secretary-General noted that participating governments had agreed on an impressive range of concrete commitments, particularly in the
five priority areas of water, energy, health, agriculture and biodiversity that he had identified for action.
The Summit will put us on a path that
reduces poverty while protecting the environment, a path that works for all peoples, rich and poor, today and tomorrow"

これに見るとおり、環境を守りつつ貧困を軽減することが最大のテーマで、そして行動は5つの主要な分野、水、エネルギー、健康、農業、生物多様性である。日本で報道されているニュアンスと大分違うことに留意していただきたい。また環境・開発サミットという呼び名も、正確には「持続可能な発展についてのサミット」というべきで、「development」を開発と日本で訳すのも好ましくない。


IMDによる日本の国際競争力ランキング、2002年30位に低下(2002-8)
スイス、ジュネーブのIMD: International Institute for Management Developmentは毎年世界の国々の国際競争力ランキングを発表している。その2002年度版によると、日本の国際競争力は昨年の26位から落ち30位、韓国、マレーシアにも抜かれたことになる。因みに、アジアのトップは今年もシンガポール、5位である。


日本の低落傾向は大変なことと言わねばならないが、このランキングの見方は、独断と偏見ではあるが2通りあると考える。それは、

1)今日本は浪費型社会から決別する過程にあり、21世紀の最も緊急の課題である持続型社会構築の導入部にいる。そのための模索が、現在の不況、経済的な低迷の原因と考えることもできる。無駄なものを買わない、浪費を控える最近の国民の消費動向を観察すると、私にはそのようにも読めてくる。
2)アメリカが圧倒的な一位だが、これは世界最大のエネルギー消費国、いわば浪費の上に立っている。たった世界の4%の人口が、世界のエネルギーを4分の一も使う、この壮大な浪費国家が持続的な筈はない。いずれ破綻せざるを得ない。

世間の常識に反する、とんでもない「異説」といわれようが、それではどのような反論があり得るだろうか。地球は有限、人類のみが無限の物質的な成長を続けられるはずはない。たとえアメリカと言えども、浪費経済成長は早晩行き詰まるであろう。現実に最近アメリカバブルがはじけつつあるようである。日本の土地の代わりに株値にのったバブル、無限成長神話が崩壊しつつあるようである。アメリカも日本の失敗に学ばなかったようである。

21世紀は徹底した低エネルギー社会へ転換すべき世紀である。持続型社会とはエネルギーを浪費しない社会だからである。京都議定書を推進する日本に比し、エネルギー利用効率の悪い国は多い。米国エネルギー省のレポートにおける「悪いランキング」は次の通りで、日本はこの図にも入らないほどの優等生、京都議定書遵守が最も難しい不利な条件にある国といよう。我が国では温暖化対策が難航しているが、その理由はここにもある。

こう考えると日本のIMD国際ランクの低さは、全く違って見えてくる。むしろ日本国民はいま最先端を走っている、と胸を張っても良いのではないか。積年の欧米路線ではなく、21世紀の新独自路線を歩み始めた。国民は分かっている、まだ分かっていないのは、在来型の日本の指導層と考えるのは愉快である。如何なものであろうか。


温暖化対策10項目(2002-5-27)

2002年5月21日京都議定書が衆院を通過した。そのための一般家庭向けの啓蒙の10項目が改めて朝日新聞5月27日に載った。

「家庭でできる10の温暖化対策」

  1. 冷房を1度高く、暖房を1度低く設定
  2. 週2日往復8キロの車の運転を止める
  3. アイドリングを1日5分ストップ
  4. 待機電力を90%削減
  5. 家族全員のシャワーを1日1分減らす
  6. 風呂の残り湯を洗濯に使い回す
  7. 炊飯ジャーの保温を止める
  8. 家族が同じ部屋でだんらんし暖房と照明を2割減らす
  9. 買い物袋を持ち歩き、包装の簡単な野菜を選ぶ
  10. 番組を選び、1日1時間テレビ利用を減らす

以上であり、環境省が作成したという。適宜ご判断されたいが、環境基本計画は「大量生産、大量消費、大量廃棄型の社会経済活動や生活様式は問い直されるべき」と述べている。


日本の食料は大丈夫かー自然と農業、そして石油の供給(2002-5)

日本の「食の安全」が問わている。狂牛病、産地の偽装、中国からの生鮮野菜増加、家畜飼料への抗生物質などの配合、農業への大量の化学物質使用、懸念材料は並べれば切りがないほどである。今では、農家は自家用と市場用を分けて生産すると聞く。

最近、知り合いから自家消費のために作ったという「完全無農薬緑茶」を頂いた。市販と味が違う、風味も異なるのである。序でながら、我家では以前より全国愛農会の知り合いから野菜を定期的に、宅急便で契約購入している。過去何十年も農薬を使わなかった大地で育った食べ物、「安心安全な食料」を購入している。

よく世間では、無農薬食料は高いと言っているようだが、それは間違っている。その理由は単純、それは「通常の流通過程」だからである。言うまでもなく多くの品物は流通過程でかなり中間マージンを取られている。そのため「汗水を流し、最も苦労をする農家」には余りお金が行かない仕組みになっている。それも「価格決定権」は農家に無いからである。

しかも、この仕組みでは産地の顔が見えず、「食の安心と安全」は市場、マネーの論理に侵されることになる。「生産者と消費者」、互いの顔が見える仕組みを構築する、これが今後の最も重要な「食の政策課題」であろう。

しかし、中長期的には更に重大が問題がある。それは「エネルギーと食料」の問題である。すこし考えれば分かるが、現代主流のいわゆる「近代農業」は石油の上に浮かんでいる。化学肥料、除草剤、殺虫剤などの化学物質は石油から作り、色々な農業機械、耕作機械などは石油で動くからである。

実は、この石油が21世紀のかなり早い時期にその生産のピークを迎えるのである。勿論、一般的にはそんな心配をする人は少なく、この資源有限論には、特にエコノミストの根強い異論がある。しかし地球は有限であることは、厳然たる事実である。油田も同様、どんなに大きくともいずれ減退する。

世界の指導的な石油アナリストは、かなり共通した危機感をもっている。資源が無限などと言う幻想は持っていない。このような視点で現実の世界の動きを見れば、大きな国際紛争の底辺に、必ずと言ってよいほど石油が絡んでいる。

具体的には、中東ペルシャ湾岸、カスピ海周辺の中央アジア、そして紛争の絶えない南シナ海など、これら三極圏はいずれも「石油資源とその搬出ルート」に当たる。各国は国益をもとめて、国家の安全保障をもとめて後に引かないのである。

これに対して日本は、戦略のない国、石油をただ買うだけで国際的な危機意識の無い国である。国益を考えない国でもある。国益という言葉すら忌み嫌う傾向がある。しかしもうそうは言っておれない時期に至っている。それは2005年にも石油生産はピークを打つというからである。それをオオカミ少年というのは易しいが、それでは論理と戦略を有する国家とは言えない。
単眼指向は危険である。今更ながら「知の多様性」を持つよう務めたいものである。それは国家の指導層の責務でもあろう。

北朝鮮の教訓。この国の飢餓は、旧ソ連からの石油支援が途絶えたからという。油ぎれの北朝鮮は、皮肉にも改革の進んだ「石油依存の近代農業」を続けられなくなった。農業機械は使われずに放置され錆び付いているという。
一方、同じように旧ソ連の石油支援の途絶えたキューバは、まだ伝統的な農業を捨てていなかった。そのためキューバでは食糧危機は起きなかった。全国愛農会によると、いまキューバは自然と共存する農業を志す人が、最も見学に訪れたい国の一つだそうである。(2002-5-5)


グリーンランド中心部の氷が、毎年厚くなっている(2002-4-22)

NASAによれば、グリーンランド中心部の氷は毎年厚くなっており、一方周辺部では薄くなっているという。これは地球の温暖化傾向により、地球表面から水分蒸発量が増えるが、グリーンランド中心部では平均気温が零度以下のため、それが雪となって降下するからである。これを薄くなっている、と見出しを書くと世間に全く違って伝わる。

序でながら、同様のことが南極でも起こっている。しかし南極大陸では縁辺部の氷は、過去20年間、後退していないことが、我が国の石油公団の調査から分かっている。地球環境の実態は、冷徹な科学の眼で視る必要がある。


(http://visibleearth.nasa.gov/cgi-bin/viewrecord?2172)


フガニスタンの地雷除去について(2002-2-25 YI)

小泉総理はアフガニスタンの復興援助に5億ドルを用意すると述べた。その中に地雷の除去がある。これは世界に公表したので、一種の日本国家の国際公約と言ってよかろう。問題は果たして可能かである。

しかし、実際に関係者に改めて地雷とはと問うと、答えは意外と曖昧であり問題の全貌はよくわかって居ないようである。それは地雷の除去について、今まで我が国であまり組織的に検討されたことはないからである。勿論、大学、企業などで地雷の検知器、或いは地雷除去ロボットなどが考えられているが、それらは個々の道具、手段のことであり総合戦略的な話しではないからである。そこで地雷とはなにか、大要を以下に紹介する(京都大学、芦田譲教授ほか)。

  • 地雷とは:地雷は金属とは限らない
  • 地雷の使用目的:人を殺すためではないことが、地雷問題の異様性
  • 地雷の種類:対人地雷だけでも約300種類、その他に対戦車地雷、対部隊地雷
  • 地雷の埋設個数:現在、世界中で約1億1千個、その他に保有地雷は2億5千万個
  • 地雷が埋設されている国:北米を除いて世界各地約78ヶ国
  • 地雷を製造している国:約37ヶ国
  • 地雷の除去に要する年月;今のままでは約1100年間(1万個/年として)
  • 地雷の除去に対する日本の貢献:日本は対人地雷全面禁止条約(オタワ条約:99年3月発効)を批准
  • 総合探査技術;各種物理探査技術の活用、そしてリモートセンシング(超広域)、化学的手法など
  • 地雷の処理:破壊の手段、ロボット技術の研究開発
  • プロジェクトの実施形態:学・官(関係省庁横断的)・産、および当事国を統合した組織を構成

その後、科学技術連合フォーラムは日本の要人に、問題提起の意見書を提出している。


京都議定書批准問題と「科学技術連合フォーラム」の見解(2002-2-17)


ブッシュ大統領が本日、2001年2月17日来日した。経済問題、テロ対策などが重要課題だが、これに合わせて京都議定書の対抗案も急遽用意したようである。これは新聞等で報道されているが、簡単には、GDPにリンクさせ二酸化炭素の排出を10年後、18%減少させる、産業界の自主努力でというものである。当然ながら、発表後様々な批判が出されている。

一方、科学技術連合フォーラム(世話人代表:内田盛也)は京都議定書批准について「国は国民に説明責任がある」としており、指導的な政治家に文書で問いかけている。
その理由は、温暖化理論の太宗である真鍋淑郎博士も言うように、「京都議定書は果たして合理的か」、またブッシュ政権が主張するように「中国などの発展途上国抜きの対策が、本当に効果的なのか」など意見があるからである。

いま世界最強の経済はアメリカにある。このアメリカが経済を優先すると言うのである。このため、科学技術連合フォーラムは、国は国民にたいして、「不況に悩む省エネの最も進んだ日本とって、京都議定書批准が国益に適うか」、説明義務があるとしている。
その詳しい内容はホームページ、<
http://ecosocio.tuins.ac.jp/ishii/votinggreen/index.html>を参照されたい。


成層圏を漂う「宇宙のゴミ」:Stratospheric Dust (2000-8-16 YI)

ゴミは地表に貯まるだけではない。成層圏には大量の,言うなれば「宇宙のゴミ」がある。余り知られていないが,NASA-Lyndon B. Johnson Space Center ではCosmic Dust Communityなるものがある。その最近の報告を紹介する。

Many tons of dust grains, including samples of asteroids and comets, fall from space onto the Earth's atmosphere each day. An even larger amount of spacecraft debris particulates reenter the Earth's atmosphere every day. Once in the stratosphere this "cosmic dust" and spacecraft debris joins terrestrial particles such as volcanic ash, windborne desert dust and pollen grains. High flying aircraft with special sticky collectors capture this dust as it falls through the stratosphere, before it becomes mixed with Earth dust. The ultra-clean Cosmic Dust Laboratory, established in 1981 to handle particles one-tenth the diameter of a human hair, curates over 2000 cosmic dust particles and distributes samples to over 30 investigators.

Cosmic dust grains include our only samples from comets, probably containing material in the same condition as when the solar system began to form. Examination of cosmic dust reveals much about the populations of interplanetary dust and orbital debris particles. Such information is useful to engineers planning proctection of Space Station against damage from high-velocity dust grains. The terrestrial dust and spacecraft debris particles are of considerable interest to atmospheric scientists and climatologists, since they influence some global atmospheric reactions.

Responsible NASA Official:

Dr. Carl Agee

Web Curator:

Claire Dardano

What You Need to Know About NASA JSC Web Policies

詳細は
http://www-curator.jsc.nasa.gov/curator/dust/dust.htmを参照されたい。




危機管理:最悪に備えることなのか?ーY2Kの教訓(2000-2-7 YI)

 
Y2K騒動、殆ど何事もなく終わった.当然である.年月時に関係ないプロセスに、Y2Kは本来関係ない筈だからで、これも冷静に考えれば分かること、プロの見解を聞くまでもなく理工系の直感がそう教えてくれた.この直感に従い我が家では、水のペットボトル、食料などの買いだめなどは一切しなかた.ただ念のため、少ない預金の通帳をぎりぎり年末に記帳し直した.何故ならこれには年月日付が関係するからである.勿論、間違いなく銀行がディスクにバックアップすると思っていたが、貧者の最後の支え、証拠を取っておきたかったからである.そして正月に入ってから、ペットボトルを大量に買った知人が、只で余ったのをくれた.妙な御利益があったのである.
 衆知のようにY2問題には、世界中で膨大な資金が投じられ、”専門家”は競争のように次々と、世の終わりのような警告を繰り返えした.これを機会に儲けた人、有名になった人が大勢いたようである.そして今、その様な人々が口を噤んでいる.同様なことが自然災害でも繰り返される.曰く地震が何時起こる、富士山が何月何日噴火するなどだが、そのたびにマスコミ、専門家が世を騒がせる.しかしどのような宣托は当った試しがない.見えざる危機に対する、社会の反応は難しいものである.
 今回の
Y2K騒動騒動は自然災害とは少し違うが、学ぶべき事は少なくないようである.このY2K騒動の最中、終始慎重な見解を展開された学者、報道機関も少数派だが無いではなかった.しかし何時の世も、時流に逆らうのは、かなり勇気の要るものである.社会が一色で染った時、独自の見解を述べると、下手をすると村八分となる.[戦時中の日本]は、今も存続するのである.

 再び本論にもどろう.Y2K騒動の後、週刊文春は2000年1月20日号で、”Y2K[大惨事なし]でも扇動者たちは[反省なし]”と特集記事を出した.見出しには”[何も起こらなかったのだから、それでいいじゃないか]ーそんな声すら聞こえてくる”とあった.そして、当時名を馳せた”専門家”の弁解も紹介し、最後に”危機管理の基本原則は、最悪に備えることよりも、危機を正しく理解することである”と締めくくった.全く同感である.

 翻って、21世紀は環境の世紀と言われる.環境破壊がもたらす地球の危機が、専門家によって繰り返えされるが、これには様々な不確実性がある.コンピュータ科学が如何に進歩しても、科学者は神ではないかから、予測はあくまで科学的な予測でしかない.最終的な判断は全てを負担する国民にある.その基本原理は”危機を正しく理解する”ことなのであろう.真に持続可能な社会を構築するにはこれしかない.


[黙示]なければ民は恣ままにす (箴言29-18)-いま環境に[ビジョン]が求められる Where there is no [vision], the people perish. (proverbs 29-18) (99-12-2 Y.Ishii)
これは最近カナダで出版された環境書、"in Earth's Company"に引用された聖書の言葉である.指導者にはビジョンが必要という意味だが、文語体では
[vision][黙示]と訳されている.

近年、環境問題への関心が高く、市民運動も活発となりつつあり、それ自体は大変に好ましいことだが、問題によっては[行く先の書いていない列車]に乗せられているようで落ち着かない.違和感があるのである.これは日本の環境運動が公害時代の発想をいまだに引きずっている、いわば告発型であるからであろう.

いまの地球規模の環境問題のどでは、加害者と被害者はもはや分別できない.例えば温暖化は勿論だが、環境ホルモン問題などにおいても、その根本的な原因を辿れば我々の現代社会そのもの到達するのであり、今の環境基本法では[国民の責務]という言葉が使われているのである.
しかし、このような漠然とした話は、一般には分かりにくく未来もよく見えてこない.肝心の大学も方向を示してはくれず、政治家、政府もあまり頼りにはならない.この理由は簡単、誰も答えをもっていないからである.

便利な現代社会を象徴するのは車である.しかしこの象徴が環境破壊の元凶の一つとなっている.この見方には大方の人は反対されないであろうが、この車を現代人は捨てきれないのである.そこで省エネ型、排気ガスを出さない車をということなる.そこで電気自動車、ハイブリッド車、或いは天然ガス車に移行すべきという意見となる.
 しかしここで少し考えれば、ここに大きな矛盾があることに気づく.如何に優れた省エネ車であっても、その台数が際限なく増え続ければ元の木阿弥であり、いずれ地球環境、資源エネルギーもどうにもならなくなる.かって自転車がシンボルであった北京、上海だが、今では車が街中に溢れ、大気汚染はすすむ一方である.バンコック、クアラルンプールでも状況は全く同じである.
そこで究極の燃料電池車ということになる.いま世界の車メーカーはしのぎを削っているそうである.この燃料電池は水素と酸素を燃料とするから、二酸化炭素を出さないから良いという人がいる.これも殆ど間違い、何故なら水素は別のエネルギーを用いてつくるからである.また車そのものを作るにも、かなりの資源エネルギーが使われる.

そこで物の流れを循環型、リサイクルすれば良いと言うことになる.確かにその通り、鉄などの金属資源は回収すれば何回でも使える.事実、鉄、アルミなどでは回収率はかなり上がっている.だがここにも本質的な問題がある.それは環境に広く分散したものを回収するには、必ずそれなりのエネルギーが要るからである.プラスチックのリサイクルでも問題は変わらず、一般的に循環社会を構築するにはエネルギーの投入が不可欠、むしろエネルギーが決め手と言っても良いほどである.
そこでエネルギーについて、物質と同様[エネルギーリサイクル]という意見が出てくる.これは本当の間違いである.何故ならエネルギーは一回使えばなくなるからである.単純に永久機関が存在するようなことを言ってはいけない.

話題を化学物質に移そう.最近、ダイオキシン論が盛んである.しかし、これにも大きな誤解があるようである.それは日本で過去使われた大量の除草剤などにダイオキシン類がかなり含まれていたというのである.最近のある研究によると、その量はアメリカのベトナム枯葉剤に匹敵するというのである.その量は焼却炉の比ではないそうで、魚類などを経由して人体に摂取されてきたたという.このような話が殆ど知られないまま、大規模な焼却炉対策が急がれているようである.激しい環境運動はともすると歪みを生ずることがある.環境運動も冷静な科学の目で推進しなければならない.

しかしこれらの環境問題の原因を辿れっていけば、究極的には我々自身の無駄な生活、浪費に行き着く.当たり前のことだが、[浪費]とは[必要以上にものを作り使う]ことであるから、先ずそれを止めれば良い.極めて簡単なことである.しかし、この最も簡単なことが人間に出来ないのである.これが自然に生きる動物と人間の最も違うとこころなであろう.人間の限りない欲の深さ、業なのであろうか.欲望のおもむくままの工業化社会、浪費は必要悪のようである.昨今のアメリカの広めるマーケット信仰、浪費に歯止めがかけられるのだろうか.

今日本で大量の赤字国債を発行、国ぐるみで浪費を促進している.借金はGDPの120%に達した.これは後世の人が払う.意図的なインフレをという経済学者もいる.私は自然科学者、経済のことは良く分からないが、漠然として不安が捨てきれない.消費者がものを買わないのが、悪のようにいう人がいるが、果たしてそうなのだろうか.私にはむしろ国民が[要らないものを買わない]、持続型社会の道を選択しつつある様に思えたならない.最初の選択をし始めたからと思えたのだが.
だが政府はアメリカに押され浪費の道を選んだ.日本人が要らないものを買うことを、アジア諸国も期待しているようである.しかし繰り返すが、これは持続的社会への道ではない.
いま更ながら、指導者に[ビジョン]が求められている.


”嘘ではないけれど” 再び、環境科学は”科学か?” 99-11-23 
 最近ある雑誌(SIGNATURE 99-12,)に、元読売新聞記者の塩田丸男氏は[嘘ではないけれど]というタイトルで、
”[真実]と[事実]はイーコールではない、私たちは[嘘]よりも[事実]に騙されることの方が多い”、そして”[真実]をねじ曲げる[事実]がある”と述べている.この言葉はかって大新聞の記者のものだけ、私に強い印象を与えた
 先に
環境科学は科学かという文を書いたが、それは環境問題、例えば、フロン問題において、紫外線と皮膚ガンのことは知られているが、[南極に夏が来るとオゾンホールが閉じる]こと、また[人間の精子の数][温暖化現象と植物の活性度]について色々な事実が社会に伝っていないと思うからである.
 断っておくが、ここで私は環境対策が要らないと主張する気はもうとうない.科学は社会の風潮、時流とは独立に、真実を述べるべきであると言いたいのである.それは真実を知らないと社会は論理的な対策を取れないからである.環境対策といえども、無制限のコストをかけるわけに行かず、資源・エネルギーを無限に投下できない.理由は簡単であり、全ての環境対策に無限の費用をかけたのでは社会は成り立つ筈もなく、今後の[持続型の発展]もありえないのである.
 塩田丸男氏は続けて言う.
”嘘なんか付かなくても、相手を[真実]と違うところへ誘導することは、そんなにむつかしくない””事実の選び方、また、どのように事実をつなぎあわせ、どんなニュアンスで話すか、それによって、一つの事実の印象が幾通りにもなる”と.
 ますます巨大化する環境問題だが、究極的な負担をするのは、科学者でない.国民である.環境科学と言えども国民にアカウンタブルでなければならない.平たく言えば、科学は役に立たなければならない.[問題だらけの21世]であるからこそ科学が人類のため役立って欲しいものである.役に立つとは科学が[未来への指針、考え方]を示すことである.分からないなら分からないと言って欲しいのである.国民は科学が真実を語ることを願っている.極論かも知れぬが、趣味の科学、盆栽造りに税を払う余裕は今の日本もうない. 

 日本学術会議会の会長である吉川弘之氏によると、本年の国際学術連合ICSUの会議で[平和のための科学]、[知のための科学]など、[・・・のための科学]がこれからの科学、という見解が出されたそうである.21世紀をむかえ、科学の概念そのものが問われだした.因みに、氏は本年ICSUの会長となられた.(1999-11-23 石井吉徳) 


99年10月12日,世界の人口は60億人の大台を越える 99-9-23
 99年,9月22日公表された,国連人口基金による人口白書,”The Sate of World Population”の最初の一節と図である。


On 12 October 1999, 6 billion people will be alive in the world, an addition of a billion in only 12 years. Nearly half will be under 25; over a billion will be young people between 15 and 24, the parents of the next generation. World population is growing at 78 million a year, a little less than the total population of Germany. It has doubled since 1960. Over 95 per cent of population growth is in developing countries. Meanwhile, population growth has slowed or stopped in Europe, North America and Japan. The United States is the only industrial country where large population increases are still projected, largely as the result of immigration. ”

 

 10月12日には,世界の人口が60億になるとの予測で,今世紀初め15億人であったから,この100年で4倍になったことになる.アジアは世界人口の61%を占める.
 また世界の人口増加の”率”は少し低くなっているようだが,依然年7800万人の早さである。かっては年9千万人で,これはメキシコ一国に相当した.それでもこれはドイツ一国の人口に迫るほどの勢いである。また世界人口のほぼ半分が25歳以下,15〜24歳が10億人であり次の世代の親となる。
 人口増加の95%は発展途上国で起きる反面,先進工業国では横這いである.しかしアメリカは例外だが,これは国外からの移民による増加である.
 この人口白書は,依然人類が人口圧力の下にあること物語っている。未だ世界の10億人は生きるための基本的なニーズすら満たされておらず,発展途上国の3分の1では清潔な水が供給されておら,4分の1には安全な住居がない。
 我々はこのような現状,なかんずく同じ域内のアジアの状態を理解した上で,適切な環境対策を考えなければならない.尚,本レポートのURLは,
http://www.unfpa.org/swp/1999/thestate.htmである。


科学とは何か

 広辞苑によると,[科学]とは
[世界と現象の一部を対象とする,経験的に論証できる系統的な合理的認識]とある。そして研究の対象,方法によって,例えば自然科学と社会科学などに分類される,とも書かれている。勿論,環境科学は自然系であり,経験的に論証出来る合理性が大切である。一方,環境問題はつとに社会的であるから,環境科学は学問として社会科学も含めた[総合科学]であらねばならない。
先きに[環境科学は科学か?]という問いを投げかけた。巨大化する様々な環境問題,科学本来の冷静さと客観性,そして合理性を常に忘れないようにしたい。科学的な知見は国民に透明に提示されなければならない。幸い,本年情報公開法が国会を通過した事でもある。(石井吉徳 99-9-18)


環境科学は“科学か?” 

 環境問題と一口に言っても様々である。地球規模の温暖化から,ダイオキシン,廃棄物の不法投棄など問題は多様である。かって公害時代,環境問題は比較的分かりやすかった。科学者の仕事は先ず汚染物質を分析すること,いわゆる公害科学では”科学的な客観性”も保ち易く,問題解決の主体は科学の枠外にあったと言える。それでも科学者は屡々政治,社会問題の渦中に巻き込まれた。また公害の解決のため,積極的に社会に出て闘う科学者の存在も貴重であった。

 その後,化学分析の技術は年々向上,かってのppm,百万文の一の桁の濃度からppt,何兆分の一を問題とする時代となった。環境問題は分析技術と共に進化する,と言う専門家すらいるほどである。分析可能の限界すれすれのところで問題が議論され,かなり不確かな分析結果に基づいた発言が社会を大きく,衝撃的に動かすことすらある。そして危機を煽る学者が世に持てはやされ,慎重に発言する良心的な科学的がむしろ糾弾されることがある。このようにして世論は統一され,ある種の[常識]が形成されて行く。

 公害時代,環境問題はまだ単純であった。汚染源の多くは点源,対策も比較的分かり易かった。しかし,最近の環境ホルモン,大気汚染,焼却炉問題などでは,元々の汚染源は市民の生活そのものにある。環境基本法でいう[国民の責務]が改めて問われている。科学者の役割も時代とともに変化し,温暖化,オゾン問題では,新しく[地球科学]が主役として登場した。この種の問題では環境影響が顕在化するまで,数十年,百年を要する。かっての公害時代と異なり環境の場,時空間は本質的に変化した。今では地球環境は,国際的な場での政治問題となっている。当然科学者の役割も根本的に変化した。
だが,一方において自然,地球のことは最新の科学をもってしても,分からないことばかりである。従って科学者の見解には,常にかなりの不確定性がつきまとうものである。このような時代,一体市民は何をすべきだろうか。

だが,改めて視点を変えてみれば,問題は明瞭,根本的な解決策を市民誰もが知っている。要するに,現代の工業化社会を根底から見直し,利便な生活から決別すればよいのである。環境科学者も単に危機を喧伝するのでなく,分かっていることと分かっていないことを,出来るだけ正しく国民に伝える必要がある。何故ならば,最終的な負担をするのは国民だからである。国民が問題の本質を十分理解しない限り,問題は解決しないのである。巨大化する現代の環境問題,理念が最も大切,環境科学が[真に科学的である]ことが求められている。(石井吉徳 99-9-14)

”循環社会を”が昨今の流行である.しかし、これは”殆ど間違い”、現代の浪費型の大量生産、大量消費社会をそのままに、全てをリサイクルしようとすれば、膨大な資源、エネルギー浪費型社会となるからである.循環の意味を深く考えよう。

[Reduce, Reuse, Recycle]の”3R”は、この順番に重要なのであり、リサイクルは3番目である。自然と共に生きる持続型社会の構築に重要なのは[ゴミ]になるものを、[作らない、売らない、買わない]の”3ない”である。

「浪費と無駄」をそのまま放置して、循環を叫ぶのは”殆ど間違い”であり、流行のゼロエミッションもリサイクルのことであるとすれば、それも間違いである。なぜなら昨今の実態が示すように、それは浪費型社会温存の道につながるからである。物から価値を目指す、浪費しない、人を大切にする、心豊かな社会がいま求められている。(緑の部分加筆:2000-12-10)


バイカル湖を訪ねて

 [バイカル]、これは日本の国民に色々の事を思いださせる言葉である.バイカル湖は日本でよく知られたロシア民謡にも歌われている。更に、これはシベリアのタイガ、松と白樺の大原生林で強制労働させられた日本人の辛苦をも思い出させる。50年程前この酷寒のシベリアで、何万という元日本兵が母国に帰ることなく、飢えと寒さで死んでいった。

その墓地の一つが、バイカル湖畔の寒村、リストビアンカにもある。6月の陽光に照らされた侘びしい丘の上の墓地には、2、30個の元日本兵の小さな木の名札が並んでいた。この墓地にはまだ新しい小さな記念碑が立っていた。この丘から、バイカルが一望できるが、遥かなたの40 km先の対岸には、未だ雪をいただく山々が見渡せるが、その麓には複線のシベリア鉄道が通っている。いまその線路上を、長い列車が轟音をあげ、ひっきりなしに走っている。北京行きの、くすんだ緑色の特急列車には、漢字で[北京」と書かれてあった。このように長い貨物列車が、今頻繁に通るのはロシア経済が少しずつ上向きつつある証拠かもしれないが、この線路は50年程前に、今はリストビアンカに眠る元日本兵達が作ったのかもしれない。

6月のバイカルは、明るく美しく、そして大きい。長さ600km、東京から青森まである.この湖へは、シベリア開発の拠点イルク−ツクから入るが、これは日本でもよく知られた300年の歴史をもつ古い街で、人口は70万に近い。私はここに5月31日から一週間滞在したが、この遠目には、ヨーロッパ的な緑豊かな美しいイルクーツクの街も、近くで見るとかなり汚れ、くたびれていた。

国立環境研究所は、以前よりこのバイカル湖を調べる国際的な環境研究プロジェクト[BICER」に参加している。これは、人間活動に余り影響されていないバイカル湖の形成過程、それにつれての生態系の変遷、更にはバイカル特有の自然環境などを研究するためである。今年からは、日本の資金でバイカルの湖底を掘る。私はこのような研究プロジェクトの関係で、イルクーツク市内の関連する4つの研究所を訪問した。また、バイカル湖そのものは、船とヘリコプターで視察した。

私にとって、ロシア訪問はこれが初めてで、これまではヨ−ロッパへ往復する際、ジェット機からシベリアを眺めただけである。いつも、広大なこの大陸の広さに圧倒され、また荒涼としたシベリアの大地におそれすら感じていた。今回のイルクーツク行きには、日本BICER協議会の事務局長で、このプロジェクトの中心的人物である、国立環境研究所の主任研究官、河合崇欣博士が同行してくれた。このため初めてで不慣れな私のロシアの旅もスムースにいった。恐らく一人では、かなり難渋したことであろうと、今は思っている。

ところで、このイルク−ツクだが、新潟から僅か4時間、ジェット機で一飛びの所にある。朝、東京を新幹線で立てば、夜には着く。意外に近いのに驚かされた。しかし、イルクーツクへの直行便は週に一便、水曜日しか飛ばない。これは不便利である。また、イルク−ツクから目的のバイカル湖へは、東に約80km、車で1時間、タイガの原生林が切れると、そこにバイカル湖があった。西岸である。有名なホテルバイカルは湖畔にある。

ところで、バイカル湖の歴史は非常に古く、ほぼ3000万年と考えられている。この地球最古の湖の水深は1600mもある.これはきわめて奇異なことだが、それはバイカル湖が今も裂けつつある、地球の割れ目そのものであるからである。現在、この湖には300余の河川が流れ込んでいるが、湖の水は至ってきれいである。だが、この湖から流れ出す河はアンガラただ一である。この流量と湖の容積から計算したバイカルの原理的な入れ代わりの年数はほぼ400年であり、この河は最後には北極海に注ぐ。バイカル湖に流入する300余の河川は、実際には山から流される土、懸濁物などでかなり濁っていること多いが、それでもバイカルの水はきれいで、最高なミネラルウォータでありそのまま飲め、実際飲んでみると美味しい。これもバイカルの不思議の一つである。また、この人間の擾乱を殆どうけなかったこの湖は、いまでも特有の生態系を維持しているという。これもバイカル研究の一つの魅力である.

現在、イルク−ツクには、バイカル研究に携わるロシア科学アカデミーの研究所がいくつもあり、私は地球化学、地殻、陸水、コンピュータ関係の4研究所を訪問した。各研究所での共通した印象は、どこも旧ソ連の体制崩壊後の極度の予算不足に悩でおり、研究のための最低限の設備、機器もままならぬようであった。しかし、彼らはこの困難な環境のなかで、得られたデ−タ実験結果から出来るだけ多くの意味を読み取ろうと、最大限に頭で考える仕事をしているようであった。今後、経済が立ち直った時の彼らの力は大変なものであろう。

ところで、問題のBICERプロジェクトだが、当研究所の河合博士はこれまでイルクーツクの科学者、研究組織と非常に良い関係を構築されたようである。これはBICER研究にとって貴重な財産であり、今後日本の研究者が、この貴重な基盤上に国際的に十分評価される成果を上げることを期待したい。多くの優れた日本の研究者がこのプロジェクトに挑戦して欲しいものである。しかし、このシベリアは日本人にとって言葉も習慣も違う、精神的に遠い国である。モスクワより日本に近い、イルクーツクもどちらかと言えば西向きで、街の風景もヨーロッパを思わせる。従って、今後ロシアの人達と十分理解しあえるようになるにまでには、かなりの年月がかかりそうである。しかし、努力をしなければ何も前に進まない。

すでに述べたが、新潟からイルクーツクまでは、ジェット機で4時間しかかからない。いまこのロシアは夏時間で、日本との時差は無い。ところがモスクワと5時間の時差がある。ロシアは西から東まで時差が10時間もある巨大な国だが、この近くて遠いロシアはかって世界を二分した超大国である。自分の論理は自分で構築してきた大国である。これは学問においても同様で、科学者の独立心は強く、またプライドも高く学問の奥行き、科学の深さにも尋常ならざるものがある。その上、彼らには、広大な国土、膨大な資源など、我々日本人の垂涎の国家基盤が残されている。何もない日本は[頭で勝負する]しかない。

短い一週間の旅であったが、ロシアの奥行きと懐の深さ知り、併せて日本の立場を改めて悟るには十分であった。(1996、石井吉徳)


明治131年の日本 (平成10年を明治から数えて)

 明治元年は1868年であるから、平成10年は明治131年に当たる。明治の初め、長い鎖国が終えた日本は、富国強兵西欧化の道を走りはじめた。そして昭和になって、日本は経済的にも技術的にも大国となることが出来た。[ジャパン・アズナンバーワン]と言われ、日本企業をアメリカの訪問団が訪れたのもつい最近のことである。

そして平成10年、最近の日本の雲行が少し怪い。絶対と思われていた金融機関すら倒産し始め、日本の経済力、システムに国民は漠然とした不安を持つようになった。不安材料はこれだけではない。お家芸であった技術開発にも見通しが立たなくなった。例えば、情報化技術といっても、その中核の技術は殆どアメリカ製である。それに科学の世界も例外ではなく、決して楽観出来る状態ではない。今もって欧米追従型、本邦初公開型である。

これは資源もエネルギーもない島国日本にとって、科学技術立国しか生きる道が無い日本にとって、由々しきことである。ではどうすればよいかだが、私は原理原則的には、問題は極めて単純であると考えている。明治からの基本原理である[欧米に追い付き追いこせ]を脱却し、セカンドランナーであることを止めればよいのである。それはセカンドランナーにとって、独創性は重要でなく個性より協調性が尊ばれるからである。先頭を走るには[自分で見て、自分で考える]姿勢が不可欠である。

雁の群れは、空を[雁行]をして飛ぶ。整然としたこのパターンは見て美しいが、彼等は趣味でそうしたのではない。これが合理的であるからである。先頭の雁は方向を決め群れを引っ張るが、風圧を真っ先に受け続ける。このためか、時折他の雁が交代し、その時パターンが一瞬に変わる。

経済大国日本も、以前からこのような[雁の交代]が求められている。ようやく、せき立てられ先頭に立ったが、なかなか巧くいかない。どうしてか。その理由も簡単で、明治以来先頭を切った経験が無いからである。世界の先頭集団に入った日本は[先頭の論理]をそろそろ会得しなければならない。

これも容易ではない。しかし、日本人は江戸時代まではかなり独創的であったようである。江戸時代は鎖国をしたから、自分で考えざるを得なかったが、人口は百万、世界最大の中世都市に住む江戸の民は、神田、玉川上水などの水道を世界に先駆けて作っている。生活も自然を最大限に生かした、無駄のない生活をしていたのであった。今の言葉で言えば持続型である。一方、文化的にも江戸の庶民は独創的であった。浮世絵などは、後世西欧絵画などに大きな影響を与えた。これに対して、当時西欧の列強は世界を力で制覇していた。アジアにも次々と植民地を作り、富をヨーロッパに集め繁栄した。西欧の物質文明は常に膨張しなければならないようである。

しかし、20世紀も終わりに近づき、物質文明、浪費型文明にも限界が見えて来た。その理由も簡単であり、地球は有限だから、もう膨張する余地がないからである。当然、大量生産、大量消費、大量投棄もいつまでも続かない。そして、人間はいま地球規模で環境を壊しつつある。そしてこの浪費の仕組は人類生存の基盤である資源、エネルギーをも枯渇させつつある。このように我々の文明は、色々な面で限界が見え始め、このため今[持続型の発展]が求められているが、これも言うは安く行うは難く、社会を根底から見直さなければならない。

この意味で、日本は西欧と同じスタートラインに立っており、これからの指導原理を模索しているわけだが、日本人も独自の論理を構築したいものである。そのための基本は何かと言えば、それは[素朴な疑問]を徹底的に追及する、[簡単に分かったと思わない]、[素朴な好奇心]をいつまでも持続することである。このように自分で考えることが、論理を深めるのであり、科学技術はそのようにして進歩して来)た。

明治131年を、そのような[開き直りの年]としたいものである。(1998、石井吉徳)


森の嘆き

[自然に学ぶ]が、これが自然を相手にする学問の原点であろう。私もこれに従って、出来るだけ多くの自然を見ることにしている。昨年春には、シベリアのバイカル湖を訪れたが、バイカルは神々しいまでに美しかった。また、延々と広がるタイガの森も印象的であったが、もう随所で伐開されている。また夏にはブラジルに行く機会があった。アマゾンの森は見られなかったが、まだまだ自然が残っているようである。秋には再びシベリア、今度は北極圏の工業拠点、ノリリスクを訪れた。荒涼とした、うっすらとした雪に覆われた[虚無の大地]は、ただ広大だったが、そこにも人間の影響は及んでいた。

そして本年3月、今度は熱帯の国マレ−シアにある国立環境研究所の施設がある[パソの森]に行った。首都クアラルンプ−ルの南方車で3時間ほどの所に、辛うじて自然のままの原生林が保存されている。広さは2450haほど、ここに3本のアルミの観測塔が立てられており、回廊で結ばれている。最も高い塔は52mあり、登って下を見るとすくみそうだが、そこからは[パソの森]が一望できる。これは、むしろ一望出来るほどの広さ、というべきかも知れないが、それでも基本的な熱帯多雨林の特長は保存されているそうである。なるほど素人目にも、原生林のテクスチュアは周囲と全く違うようである。このパソの森は、森林研究センタ−にするということで辛うじて生き残った、西マレ−シア低地で唯一と言ってよい残存原生林である。

いまマレ−シアを旅すると、至る所に広大な油椰子、ゴム、アカシア・マンギウムの人工林が展開する。いまマレ−シアの国土の約75%は森というが、その内25%はこのような人工林だそうで、この国の重要な経済基盤となっている。

しかし、これにも色々と問題があるそうで、例えばゴム林は最近は経済性が良くなく各地で放置されており、かない荒れているものが多い。またオ−ストラリアから持ち込まれたアカシア・マンギュウムも、材木としての利用価値はそれほどでなく、フタバガキ科の樹木などに植えかえようとしている。このため日本のJICAが試験植林プロジェクトを進めている。これも単に苗を植えれば良いというものでなく、アカシア・マンギウムの蔭を上手に利用しなければならないという。森そのものが[複雑な生きたシステム]なのである。

このマレ−シア北部のBidorにある試験林では、元あった森の、焼け残った大木の姿が哀れであった。人間によって焼かれた[森の嘆き]が聞こえるようであった

また油椰子の林は、通常十数年も経つと植えかえるそうだが、これには大量の除草剤が使用されている。幹に薬が注入される。この方が簡単だからだが、大きな油椰子の木々は灰色に朽ち落ち、ただ分解してゆく。そして、鉄を含んだ赤いラテライトの大地、雑草すら生えない[無機の大地]が後に残される。勿論、また油椰子の林にいずれ戻るのであろうが、異様な風景である。

国立環境研究所は5年前から、マレ−シアのFRIM(マレーシア森林研究所)、UPM(マレーシア農科大学)、日本の森林総合研究所などの研究者と共同で熱帯林の研究を続けている。マレ−シアの自然が、[森と人類の共存]の道を教えてくれることであろう。大きな成果を期待している。(1997,国立環境研究所副所長 石井吉徳)


自分で考えようー無限に成長はできない

 有限の地球で「人間だけが無限に成長は出来る筈がない」。この単純な真理に人は気づかない,あるいは気がづかない振りをしているのかも知れない。そして今日も人類は大量の資源エネルギーを浪費する。この仕組みはもう破綻している,いわゆる「持続的な発展」などは望むべくもない。

 ではどうするかだが,そのためには先ず真実を知ることである。そして自分で考えることである。自然環境,特に地球環境は分からないことばかり,素人は自然科学者に依らざるをえない。だが自然は人間にとって永遠の謎,科学者の知恵は限られている。ましてコンピュータで分かるはずもなく,科学者の未来予測が永遠に確定することはない。だからといって放置することができない。現代社会の矛盾である。しかし原理原則的には問題は明瞭,成すべきことは分かっている。

  • 「地球は有限」,無限を望まない,欲張らない
  • 「物から価値へ」,意識を変え,無駄:Mudaをしない
  • 「欧米の論理から独立」,自分で考える
  • 「知恵は無限」,21世紀は,深い知的発展の世紀

 環境は只ではない。これからも全ての負担は国民にかかってくる。科学者でも環境運動家でもなく,まして官僚でも政治家でもない。そこで,科学者は[自然から学んだこと,教わったこと」,そして「知らないこと,まだ分からないこと」を科学的に正しく国民に伝えなければならない。その上で国民は[素朴な疑問を持ち,自分で考える]のである。貴方任せにしてはならないのである。

 科学技術が発展すれば,21世紀は大丈夫などと思ってもならない。残念ながら,科学の歴史は科学者が如何に頼りないかを教えてきた。20世紀の科学技術が本当に人類を幸せにしたか,最近アメリカにおけるコンピュータサイエンスの中枢とも言うべき人物から,根源的な疑念が出された。

 サンマイクロシステムズ社の創始者,Bill Joyは,最近”Why the future doesn't need us”のタイトルで,遺伝子組み替え,ナノテクノロジー,ロボット工学など,頭文字でGNRと括られるが,これら現代科学技術の粋が持つ「不気味さと危険性」を警告し,世界の注目を浴びている。

 その一部抜粋に曰く,”現代は商業主義の時代である。技術ー科学は技術に追従するものでしかないーは,次々に魔法のような新発明で莫大な富を産み出した。人々はグローバル資本主義独走の中,金銭的な動機,市場競争のプレッシャーに突き動かされ,新技術のもたらす夢を追い続けている”(Wired誌2000年4月号,MacPower誌2000年8,9,10月号翻訳。紹介がコンピュータ雑誌なのも皮肉である。朝日新聞にもその後大きく報道されている)。

 私は以前より,西欧型の科学技術が万能ではないと,機会あるごとに主張してきた。この当然なことに,西欧人すら気付きだしたというべきか。益々進むグローバル情報化社会の奔流の中で,人が如何に個性を再発見するか,人間性を取り戻すか人類にとって最も重要なことが問われている。

 そのために何をするか。再び繰り返すが,自分で考えるのである。(99/6-22,00/8-27 石井吉徳)

 

 

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