地球環境は技術で救えるか
Can technologies save global environment?
石井吉徳  東京大学名誉教授 前国立環境研究所長
Yoshinori Ishii
Emeritus professor of Tokyo University
9th Director General of the National Institute for Environmental Studies

地球規模問題の原点は人口問題である。しかしこれは人間の制御下にはない。現代工業化社会も依然として浪費を捨てきれないでおり、未来の持続型社会の道筋は見えない。このような時は原点に戻るのが良ことがある。環境理念を原理原則に考え、着実な環境技術を構築するの良い。このような見地から、本論ではゴミの本質、循環とエネルギーの関係などを原理的に考察する。同時に再生的エネルギー問題についても論じる。

The origin of environmental problems is the human population burst which seems uncontrollable by mankind. Since the modern industrialized society demands huge consumption of manufactured products, it inevitably produces huge waste or garbage, thus degrading natural environment. To put our society back onto the sustainable course, we should review our basic social behavior, then question what the real environmental technologies are. This paper also discusses the relationship between recycling and energy requirement in view of the possibilities of renewable energy.


1)人口が問題の原点
結論から言えば、技術で地球環境は救えない、しかし、[今のままでは]という条件をつける。その理由は簡単である。人類の膨張が一向に止まらないからである。

 世界人口はすでに59億人になり、しかも毎年9千万人増えている。この膨大な人口が物質的な成長を求めつづければ、地球の資源は枯渇し環境が悪化して行く。この状況では21世紀の持続的発展は望めそうになく、人類は本気で何かを変えなければならない。このようなとき技術に出来ることは限られており、恐らく対症療的なことしかできないであろう。それでは原因療法とは何か、と問われそうであるが、これも考えれば切りがない。しかし、原理原則的にはむしろ単純で、今の大量消費社会を 本気で見直し我々の生き方を思い切って変えるのである。これが、現実には大変に難しく、今の文明を否定するほどの問題で「今のままでは」殆ど不可能に近いのである。
 当初、本論のタイトルを[技術で地球環境は救えない]としたかったが。それでは余りに刺激的であると考え今の表題にした。言うまでもなく、まだ人類は持続型の社会をどう構築するか答えをもっていない。また、将来持ちうるかについても悲観的である。

 しかし、本質的には古代からの人間の行動原理は単純で、森を最後まで使い切っては、新たな森を求めて移動した。人類はこのパターンを繰り返したのであり、文明は森とともに栄え森とともに衰退したのでる。時によっては民族が殆ど滅亡することもあった。このような古代から文明の変遷については、平成6年度環境白書に良く書かれている。
中世以降の人口移動は図1が参考になる。


図1 主な人口の流れ(1500−1950)1

このJ.W.Weeksによる図には中世からの代表的な人間の移動が良く整理されている。16世紀以降ヨーロッパで溢れた人々は北アメリカ、南米(1、2)、オーストラリア(3)などへと移動した。アメリカへの移った人は、その後労働力を確保するため、アフリカから黒人を強制的に連行した。(4)黒人奴隷の流れである。そして現代。最近の中国人の不法入国などに見られるように、巨大な人口を持つに至った中国、インド(5)からは、人々は色々の形で世界各地へ流れている。これは今後の大きな問題である。(6,7はアメリカ、ロシアの人の国内移動である。

 これらの流れのなかで、(1)から(3)まではヨーロッパ人が先住民を駆逐した、力の移動である。彼らにとっての[新大陸]とはそのようなものであった。いずれも中緯度の、気候も温暖な豊かな大地ばかりである。物質文明の歴史を述べたF. Braudelによると、歴史的に人類は地球上の土地の10%しか利用してこないという。人類の歴史とは地球上90%の土地を放置してきた歴史であるという。これは非常に含蓄のある指摘で、人類はいずれ宇宙に住むなどという、宇宙科学者の幻想を一蹴する。


図2 限りある地球

 図2は今から14年前に作った。有限の地球から人間が溢れていると風刺したものだが、これが私の有限地球観のトレードマークのようなものである。これを作った当時、世界の人口はまだ44億人であったが、すでに資源、環境問題は顕在化していた。その後人口はさらに増え、地球はますます狭くなった。地球環境問題にも好転の兆しはない。
 人口が問題の原点、これが私の地球学の原点である。地球の人口支持能力を研究したJ.E. Cohenによると何の束縛条件なしに、太陽エネルギーによる光合成と人間が必要とするカロリーから、地球の究極的人口収容能力計算すると1兆人になるという。勿論これは非現的な架空の話であるが、太陽エネルギーで究極的地球人口を眺める発想は面白い。その他いろいろな世界人口の予測があるようだが、このような未来予測があまり的中したことはない。そして未来の人間の姿はもっと予想が難しい。
 最も参考になるのが人間の歩んだ歴史を振り返ることである。である。例えば、未来の地球は太平洋の孤島、イースター島のようになってはならない。この「閉鎖系」で島民は豊であった森を最後の一木まで使い切った。遂に島を逃れるカヌーを作る木さえなかったという。そして後に、石の巨像群をだけが残った。人類は後に何を残すのだろうか。
 だからといって、私は文明論を振りかざすつもりはない。文明論では現実の問題は解決しないからである。大量消費で成り立つ現代工業社会を変えるのは、やはり技術である。本論はそのための[ベースライン]について論じるものである。


図3 熱帯雨林の減少5


2)浪費を促す工業化社会
いま[大量生産、大量消費、大量廃棄]が問われている。かって高度成長時代には大きいことは良いこと、物を捨てることは良いことされ成長も当然視された。そしてバブルがはじけ不況がおとずれ、日本人は無駄な物を買わなくなった。言い過ぎかも知れないが、これで日本人の浪費に歯止めがかかったのである。これは地球環境、資源問題にとってむしろ好ましいことで、「量より質]の持続可能社会時へ、第一歩を踏み出したように見える。
 しかし、いま経済は不況で大変である。そこで緊急の景気浮揚が取られ、もっと物を買うよう推進さている。だが、これが高度成長時代の夢よもう一度であっては困るのである。一方、アジアの不況も深刻である。アジアでは急速な工業化政策の進展ともに製品が溢れ始めた。その結果であろう、
日本の内需拡大が求められているが、日本にも似た製品が溢れている。もう国民はあまり欲しいものがないのである。そこで税金で公共投資をとなるが、もう道路も橋も作る必要がないほどである。道路は毎年掘り返される。ここにも問題が山積している。

 今春、日本最西の島、対馬に行った。風光明媚なこの島には、いま絶滅の怖れがあるツシマヤマネコが住んでいる。しかし、毎年繰り返される道路、港湾工事のため最近ツシマヤマネコの数が減って、100頭以下になったそうである。また海岸近くの気水には[ヒヌマイトトンボ]という、珍しいトンボが[生息していた]。過去形にしたのは、このトンボがもう絶滅したらしいからである。この話は新聞にも出なかった。
 この島は日露戦争で有名である。ロシア艦隊を迎え撃つ東郷元帥はここから出撃した。昔の軍港のあたりの風景はすばらしいが、気がつくと
山々には森らしい森がない。山容の貧しさは、ぎリシャの山々を思わせるほどである。
 この対馬でさらに驚いたことがある。海岸を埋め尽くす大量のゴミ、島の西に位置する井口浜では砂浜が全く見えない。
ハングル語が書かれたプラスチック類のゴミで、足の半分は埋まるほどである。この対馬からは、対岸の釜山が肉眼でも見える。ほぼ50km、本土より近い。帰京して調べたが、この日本海の東側ではゴミにロシア語が書かれているそうである。日本海の面積は約100万平方キロメートル、日本列島の約2.5倍、最大水深は3725mと深い。平均でも1350mある。だが対馬海峡など出入りの海峡は、意外に浅く200m程度しかないから、日本海はほぼ閉じた海盆と言って良い。海水は入れ替わるのには、大変な時間がかかることであろう。今後日本海の汚染が進まないよう、関係各国で早急に考える必要がある。


図4 各種のエネルギー

 


表1 世界のエネルギー資源 
(平成7年度 総合エネルギー統計)


3)自然環境と資源
 地球の資源は、再生的と非再生的に分類される。後者は使えば無くなる。これが最も単純な定義であるが、人類に関する限り森林は再生資源ではないようである。これは再生的資源であっても、人間がする消費速度が早ければ、実質的には非再生的となるからである。図3は熱帯雨林の減少率であり、人口増加の激しいアジアでの減少率10%が突出している。
 表1には、非再生的なエネルギー資源がまとめられている。石炭をのぞけば「化石的」燃料の寿命は、ウランも含めて数十年程度しかない。改めて述べるが、このような地下資源は長い地質年代を経て濃縮されたものであり、「濃縮」が資源の本質である。
 図4には、再生、非再生、各種のエネルギーが分類されている。今後期待される再生エネルギーが太陽、風力、地熱、バイオマスなどである。次いで図5は、再生エネルギー利用が最も進んでいる米国エネルギー省、1996年のエネルギー統計である。これによると再生的エネルギーはまだ全体の8%に過ぎない。その内訳は燃えるゴミ、農業廃棄物、木材などの総称、バイオ燃料が41%、水力発電が53%で両者で94%になる。これに対し太陽は1%、風力も1%以下である。地熱は少し多く5%程度である。我が国でも石油ショック以来、新エネルギーの開発に努力が傾けられてきたが、通産省平成8年度の総合エネルギー統計によると、水力、地熱など新エネルギーは4.7%である。
  いずれにせよ、地球環境問題はエネルギー問題そのものであるから、エネルギーは今後の人類の未来を制する。「石油の世紀」を書いたD. Yerginは、20世紀は石油の世紀であると述べている。石油錬金術が支えた21世紀の現代社会は、今エネルギーを中心に大きな転機を迎えている。地球温暖化はこれに拍車をかけている。しかし、未だ本格的なエネルギーの未来の展望は見えていない。太陽をと言う人は多いが、現実にはまだまだである。また石油も21世紀半ばには減退をはじめるであろう。原子力をと言う人も資源量と放射性廃棄物問題について、しっかりと答えなければならない。

 このような状況では、省エネルギー、省資源が先ず大切であり、循環型社会の構築が不可欠である。いま環境技術のみならず、全般的な技術の改革が求められている。別の言い方をすれば国民が浪費をしない、政府も企業も浪費を求めないことが大切である。しかし、この道は痛みを伴う道である。国民がそれに耐えられるか、私には疑問である。同時に世界の人々が、人種も宗教も価値観も全て違う人々が共に同じ道を目指せるのだろうか、これも疑わしい。「幸せ、豊かさ」を考え直そうと人は言うが、そのようなことを人間がかってしたことがあるのだろうか。



図5 再生エネルギー(米国、エネルギー省6

 4)確かな環境技術論を
 一口に環境技術と言っても意味は色々である。本論はもうお分かりのように、主題をエネルギーに絞っている。しかし、それでも問題は極めて多岐にわたる。
 これまで、エネルギーの命題とは、「安定供給と低廉さ」の2つであった。今、これに地球環境問題が加わった。エネルギー問題の重要性はますます大きくなった。しかし日本において、一次エネルギーについての理解は余り深くない。このためエネルギー論が地に着いていないことが多い。例えば、砂漠で太陽発電して水素を、と言う話は今に始まったことではない、かなり昔からある。だが現実には一向に前に進まない。つまり本格化しないのである。これからは難しい理由そのもの、どうしてうまく行かないのかが重要な研究テーマかも知れない。おそらくは、砂漠という自然を含めたシステムが問題なのであろう。また、バイオマスを強調する人も最近は多い。これも例えば農業適地と競合しないか、よく検討して欲しい。議論があるようだが、本当のことは国民には分からない。
 また地熱は、火山国日本の本命であると人は言う。著名な環境学者が本に書けば、その通りと一般人は思ってしまう。しかし日本での長年の努力にも拘わらず、未だ総発電量は未だ約50万kWである。このような人は、地熱資源は非再生的であることを知らない。今でも海水ウランを、というエネルギーの専門家はいる。そのような人はウランの濃縮するどの程度エネルギーが必要か教えてくれない。
 京都会議後は二酸化炭素削減の技術が話題である。これもしっかりと論理を構築して欲しい。中にはかえってエネルギー消費が増えそうなものもある、二酸化炭素だけに目が行くためであろう。やはり先ず省エネルギーである。今後も産業分野は大切だが、民生、運輸のエネルギー消費が近年は増えているから、一般の国民の認識と努力の喚起が必要のようである。参考に日本の最終エネルギー消費について述べておこう。平成8年の統計では、産業は49.6%で、民生、運輸はそれぞれ26.0%(家庭14%,業務12%)、24.5%で合わせて産業用に匹敵する量である。とほぼ同じである。

 リサイクルも大切である。現在、日本の一般廃棄物の再生率は9%ほどであるが、鉄は40%、アルミは70%とかなり高い、統計の取り方によっては更に高い。金属の回収率は原理的な有利であるからだが、よいことである。また紙の再利用はもっと繊維の長い木材を使えば、今の3回が6回くらいまでは伸びるという。リサイクルを簡単な数式で見ると、次のようになる。物質の再利用率をnとし、単位1.0の初期資源投入が繰り返し利用されるとすると、究極的な資源の利用量:Nは、

     N=1+n+n^2+n^3+n^4+・・・・=1/(1ーn)     

である。ここで90%の再生率、つまりn=0.9と置くとN=10で、初期資源量が10倍に使えることになる。9%ではN=1.1であり、10%増でしかない。再生率が大切なことが分かる。これから率が小さいものを無理に回数多く繰り返しても効果はないことが分かる。
 序でながら、繰り返しの再利用は「物質」でしか出来ないことに改めて注意しておく。よく[資源やエネルギーの循環]、「エネルギーリサイクル」という言葉を見かけるが、これはいずれも間違いである。エネルギーでは循環が不可能である。石油は炭化水素だから、燃すと二酸化炭素と水になり物質が変る。仮にこれを再び炭化水素にしようとすれば、最初の燃焼エネルギー以上のエネルギーが必要である。エネルギーにおいて意味があるのは「有効利用」だけである。
 また注意すべきことだが、リサイクルでは再生ステップごとにエネルギーが要る。それはゴミは拡散したエントロピーが増大した状態だからで、これから有用物質を取り出そうとするのは濃縮の過程、つまりエントロピーを下げる過程である。これには必ずエネルギーが要る。循環型の社会においては、エネルギーは一層本質的な意味を持っている。同様に「ゼロエッミッショ」という標語も注意が要る。何故ならこれにもエネルギーが必ず要るからである。

 図6は我が国の物流でる。この物流パイプへの入力は、先ず自然界から19.3億トンで、うち海外からが6.8億トン、国内採取が12.5億トンである。日本に輸入される資源は、資源国で様々な物流を作り出しているが、表面に現れない捨て石・不用鉱物の22.9億トンは日本に持ち込まない。これを「隠れた物流」と呼ぶ。同様に国内においても、建設工事にともなう掘削の捨て石・不用鉱物は11.8億トンに上る。これも隠れた物流である。この隠れた物流は全体で25.2億トンで、57.3億トンに上る日本の全物流の半分を占める。一方、再生利用量は2.1億トンでしかない。今後の努力に期待したい。次の図7は、日本を含めた先進4カ国の、国内起源と国外起源の物流を一人当たりで比較したものである。日本では国外起源の方が多いが、ほぼ半々である。オランダは国外起源が遙かに大きい。米国は反対で殆どが国内起源である。これは以下に米国が大資源国であることを物語っている。資源の少ないオランダは国外起源が多い。オランダの自国はクリーンだが、海外に環境汚染を広めているのだろうか。

図6 日本の物流(平成7年、億トン)7


図7 国内、国外起源の物流(1991年)5


5)[ゴミ]の科学
 環境問題は究極のところ人間活動が出す[ゴミ]の問題である。私はゴミを広い意味につかっている。厳密には、ゴミに相当する言葉には廃棄物、残余物などがあるが法律では廃棄物が使われているようである。しかし、この言葉は循環社会にはそぐわないという意見がある。ドイツでは1994年の法律から、廃棄物という言葉を止め残余物にしたそうである。私は子供にも通用する「ゴミ」が好きである。
 そのゴミだが、これには[気体のゴミ]、[流体のゴミ]、陸の「固体のゴミ]などがある。目に見えない放射能は[核のゴミ]である。このゴミが環境を悪くするわけだからゴミを捨てなければよいと言うことになる。誰もが自分のゴミ以外はそう言う。車にも乗る。NIMBY(Not in My Back Yard)現象である。そして法律の規制を強化し、自治体は責任をとれという。この従来からの考え方は、ゴミは増すばかり、規制しても取り締まってもゴミは増えるばかり、ゴミは物流パイプから絞り出されるように、いつまでも何処からでも出てくる。どうしてなのか。原理的ではあるが理由は単純である。生きるシステムは、ゴミを捨てなければ生きて行けないからである。このゴミの本質を理解することが、ミニマムゴミ社会への近道のように思われる。
 人間も毎日食物からエネルギーを摂取、排泄物を出して生きている。これが新陳代謝で不要となった物を外に捨てる。これが人間の出す[ゴミ]で、これで人間はシステムの秩序を維持している。これには水が重要な役割を果たしている。水はエントロピーを下げるのになくてはならない。しかしこれは機会を改めることにする。

 このゴミの意味は、熱力学のエントロピー法則で考えると分かりやすい。エントロピーとは熱量を温度で割った一種の状態量で、同じコップの水も高温は低温よりエントロピーが低い。両者を混ぜると全体のエントロピーは増加する。このように混合、平均化は系のエントロピーは増加させる。
 より一般的に、自然現象では常にエントロピーが増大している。この自然現象の一方向性は極めて本質的な意味を持っている。自然のプロセスは常に平均化、混沌化へと進むだけである。例えば一様な温度の水の一部が、自然に熱が集り高温になることはない。同様に混沌から秩序が自然に生まれこともない。このことは我々の日常の経験からも理解できる。つまりエントロピー則とは、一種の経験則なのである。例えば冷蔵庫は電気エネルギーを使い、周囲の温度つまり環境より低い低温状態を作る。この時でも冷蔵庫が置かれた部屋の温度は上昇している。

 再びゴミの話にもどろう。もう説明を要しないが[ゴミの本質」とは混沌、無秩序のことである。人間活動によるエントロピー増大の末路が[ゴミ]なのである。これを逆に動かすプロセスがゴミが再利用、循環のプロセスであるから、そこには何らかの有効エネルギーが要る。よく[分別されたゴミ]は資源と言う。有用物質を濃縮したのである。この場合は人間が労力を使いエントロピーを下げ、その結果価値が上がったのである。これがゴミの資源化の意味である。ゴミに「資源の定義]の一つ、「濃縮」条件を満させたのである。
 表2には色々の金属資源が、濃縮の程度で分類されている。一般に、資源の意味が誤解されることが多いので、これを機に資源の意味を説明する。資源とは「濃縮されている」、「大量にある」、「経済的に取り出せる位置にある」ものを指す。


表2 金属資源の濃縮度(山口梅太郎:現代資源論、1990)

 脇道にそれるが、太陽、風力など、自然エネルギーが何故思うように普及しないか、この最大の理由は、これらが濃縮されいないことにある。太陽光が「大量に、何処にもある」だけでは不十分なのである。このために太陽も、風力も大きな面積が必要である。これに対して、石油などは自然が長時間かけて濃縮した。石油は便利すぎるのである。だから石油から逃れられないのである。この認識も大切である。自然エネルギーは、本質を直視して始めて前進できる。

 以上「ゴミ」をエントロピーから論じた。このゴミの科学は、まだまだ定性的、観念的だが、今後研究したい興味あるテーマである。エントロピーから色々のことが見えて来る。乱暴かもしれないが、未来の循環型社会はエネルギー多消費型社会なのであろう。
 最後に地球システムをエネルギーから眺める。地球もシステムとして生きている以上、ゴミを捨てなければならない。どんなゴミを、どこに捨てるのだろうか。地球は6000度Kの太陽放射エネルギーをうけている。一方、地球は300度Kの熱放射をしている。この低温の熱エネルギーが地球が捨てるゴミである。地球上の全ての秩序、生命現象はこの6000度Kと300度Kの放射温度の差で維持されている。

 以上が地球の全てである。私が究極的にゴミ問題はエネルギー問題である、と主張するのはこのためで、私の「地球学」の原点でもある。

6)地球規模の問題
 もう異論はないと思うが、地球規模問題は現代社会の巨大な物流が作り出している。この意味で我々全てに責任がある。それをそのままに、パイプの出口だけ規制しても、またゴミ処理をしても限界がある。対策技術だけではもう解決出来ないのである。汚染源が特定できたかっての公害時代の発想では、現代の問題は解決しない。

 かって、高度成長時代、[浪費を作り出す人々]という本が出されった。米国の翻訳で著者の名は覚えていないが、それにジャガイモの皮むき器の話があった。あるメーカーが製品の販売を伸ばすため、皮むき器の色をジャガイモと同色にした。とたんに販売数が跳ね上がったという。理由は簡単である。台所で、皮むき器がジャガイモの皮と一緒に、どんどん捨てられるようになったのである。この話はたわいないが、現代の物質社会を象徴している。高度成長時なら、このような話は笑って見逃せるが、今はそうはいかない。持続型の社会とは、浪費をしない社会だからである。しかし、現実には今でも浪費は促進されている。最近ようやく無駄な物を消費者が買わなくなったと思ったが、不況がやってきた。そこでまた浪費待望論である。もっとも緊急の経済策は必要なことは私も認めるに吝かでないが、これが恒久的な浪費の復活にならないことを願って要る。いつもながら「経済と環境]の矛盾は根が深いものである。

これからは「物ではなく知の時代」である、情報化の時代であるという。だが、現実は全く逆のようである。[知の象徴]であるコンピュータも、次々とモデルチェンジされ陳腐化されて行く。新モデルがでると、プログラムは走らなくなり「ハード」も2,3年で捨てなければならない。
 「 ソフト」も同様である。バージョンアップというプログラムの「進歩」は、不用な機能を次々と追加するが、ますます重くなる、従って、より高速な演算装置、大メモリーが必要となる。いらない機能が増え値段は上がる。私はこの論文を書くのに、いまワープは使っていない。単純なテキストエディタを使っている。このプログラムは小さく動作は機敏で軽快である。因みに、このソフトは日本製、2500円である。テレビCMも浪費を促進している。深夜放送も情報はほとんどない。これからの環境技術は、このような社会構造にメスを入れるものでなければならない。環境技術にも理念の改革が求められている。
 次の式は、地球環境問題の概念整理をする式である。マスター方程式という。

     環境影響=人口*(GDP/人口)*(環境影響/GDP)

式の意味は簡単である。環境影響を分解して、第1項の人口、第2項の一人あたりの GDPつまり経済活動と、第3項のGDP当たりの環境影響の積となっている。経済発展と環境保全の積が増えない社会が望ましい。しかし、第1項の人口が全体に掛け算されるから、人口が2倍になれば環境影響も2倍になる。
 この意味では人口が最も重要な意味を持つ。しかし、この人口問題は環境技術の範囲にはない。警告を技術的な根拠から出すのみである。この問題こそが、人文社会学の領分である、宜しくお願いしたい。
  近年、自然の生態系エコロジーに学ぶ、[産業エコロジー]なる概念が話題である。今後の興味ある総合的なアプローチと言える。何故なら、産業のあり方を自然のプロセスに学ぼうとするからである。このような発想が私は好きである。「自然に学ぶ]ことが、人間に自動的に「本質を考えさせる」からである。産業エコロジーはIndustrial Ecologyというが、Ecological Industryのほうが内容にフィットしそうである。また技術についてはEcological Engineeringと呼ぶのが適当であろう。いずれにせよ今後の発展に期待したい。


7)さらに必要な情報公開
 環境保全には国民の理解が必要である。地球環境問題のように、まだ顕在化していない目に見えない50年、百年後の問題において、科学者は「分かっていることと、分かっていなこと」を、国民に正しく客観的に伝える義務がある。何故ならば、社会の改革を迫るような大きな問題では、[正しい]情報開示なしに長期間社会を動かせる筈がないからである。
 これに関して、話題の地震予知と社会の関係が参考になる。自然は永遠の謎だから、科学者の知識はいつまでも不確定である。地震予知も例外でない。一方社会は少しでも具体的なことを要求する。いつの間にかこれに合わせるようになる。これが問題のはじまりである。

 
図8 接点の科学

私は以前より、図8のような「接点の科学]を主張している。学問と社会の接点はそのものが科学であるという意見である。最も大切なことは、主権者である国民に科学で知りえたことを客観的に伝えることである。問題によっては「分かっていないこと」を知ることは、「分かっていること」を知る以上に大切なことがある。「透明さ」が大切なのであって、「誰かに整理された情報」が大切なのではない。 科学者の警告の意味も、国民が十分に理解していることが望ましい。そして国民が「素朴な疑問」を持てるようになれば言うことはない。幸いインターネットなど、新しい情報伝達システムが世界中で整備されつつある。これを最大限に利用すれば、今述べたことも決して夢でない。中身のあるデータベースの構築も環境技術の仕事である。


8)アジア諸国と共に考える
 球環境と技術について述べるつもりであったが、いつのまにか理念の話になった。論点もエネルギーに偏ったようである。これも念頭を去らないことがつい出てしまった。軌道修正をしようと原稿を何回も見直したが、この色は最後まで消せなかった。いつもながら環境に関する文を書くのは、本当に気疲れがするものである。

 最後に、一言アジアのことに触れておきたい。それは地球環境はアジア抜きには語れないからである。アジアは今経済危機、とても環境まで手が回らない。このためであろうアジアの環境汚染が進んでいるようである。いろいろな汚染物質、ゴミが国境を超えて日本にもやってくる。単なるお話でなく、アジアの環境問題は日本の問題でもある。従って日本の協力が必要だが、これには戦略が必要である。単に既存の環境技術は持ち込んで済むことではない。アジアにはアジアらしいアプローチが必要である。
 これには先ず日本が欧米の論理の枠組みから、早く脱却することが大切である。それは綻び始めた西欧の論理上に、人類の21世紀はない。その出発点も単純である、[自分で考える]のである。これも私の年来の持論である。また説教調となった。私の悪い癖である。お許し頂ければ幸いである。
(”環境研究”:1998年111号、環境調査センター;”物理探査”v.52,no.2: 1999 物理探査学会)


参考文献

 1)J.W. Weeks, ”Population : An Introduction to Concepts and issues”Wadsworth Publishing Co.. 1992
 2) F. Braudel, ”物質文明、経済、資本主義”、日本訳、みすず書房, 1979
 3) 石井吉徳、 ”エネルギーと地球環境問題”、愛智出版 1995
 4) J. E. Cohen, ”How Many People The Earth can Support?”, W.W. Norton & Co., 1995
 5) World Resouces Institute et al, ”Resource Flows: The Material Basis of Industrial Economics”, 1997
 6) Renewable Energy Annual 1997, US Department of Energy: 1998
 7) 環境白書、平成7年、環境庁
 8)T.E. Graedel et al, ”Industrial Ecology”Prentice Hall., 1995、 日本訳、後藤典弘、(株)トッパン、産業エコロジー、1996



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