2002/11/6
再改訂2014/3/5

有限の地球で経済の無限成長は出来ない
エネルギーの未来、食料、自然環境

石井 吉徳
もったいない学会会長、東京大学名誉教授

 

1 )見えない未来のエネルギー:減退する石油生産量
結論から述べる。人類は持続できない、今のままでは。それは大量生産、大量消費、大量投棄型文明を現代人は捨てきれない一方、文明を永続的に維持するエネルギー源の見通しもないからである。

言うまでもなく、地球は有限である。従って資源・エネルギーも有限だが人々はこの事実に気がつかない、あるいは気がつかない振りをしているかのかもしれない。また科学技術が進歩すれば何とかなると楽観してる人も少なからずいる。そして国の指導的エコノミスト、産業人、政治家なども今は経済浮揚が最優先と、大規模な財政出動を求める。だが、これでは国の借金は増えるばかり。

今では、これを国民はむしろ冷ややかに見ているようである。いま分かっているのは国民なのかもしれない、最近の内閣府の世論調査などもそれを示している。

そこで21世紀の持続型社会だが、その構築はリサイクルの徹底、ゴミを循環資源として活用するなど下流部門についての意見のみが目立つようである。自然生態系の循環の仕組みに見習えばよい、一見尤もな意見も多いが、これられは、ほとんど誤りである。何故なら問題の原点は大量生産にあるからで、これに切り込まない限り、人類の未来はないからである。

大量循環型社会は、大量のエネルギー浪費を招く可能性があるが、そのような警鐘を鳴らす専門家は日本では皆無に近い。ゼロエミッションなども流行語となった。しかしここで一寸立ち止まって自分で考えれば分かることだが、ゼロエミッションを文字通りに実行すれば、無限エネルギー社会を招く筈である。

残念ながら、日本の環境論には、このようにエネルギーに関する視点を欠いている。多くのエネルギー、環境に関する専門家は、部分しか見ないのである。本当に困ったことと言わねばならない。今、専門家が日本を駄目にしている。

繰り返す。今のままでは、人類は持続できない。19世紀末、イギリスで石炭資源の供給が心配されはじめたころ、資源問題を内包するマルクス経済学でも資本主義経済学でもない、第三の経済学が萌芽しかかったことがある。しかし、その後新エネルギー、石油が台頭によって、この芽は成長することはなかった。

しかし、いまその石油の生産量減退が話題なり始めた。しかし新しい持続的エネルギーは未だ不透明、原子力も有限なウラン資源に依存する有限エネルギー源、話題のメタンハイドレートも濃縮されていない、とても資源と言えないものであり、その上大規模な海底環境破壊を招く怖すらある大変な代物である。

資源と経済に関する議論は、百年を経て再び繰り返されようとしている。今度こそ本気で有限地球観に立脚する、資源問題を経済学の中核に織り込む「エコロジー経済学」を樹立したいものである。


2)第三の経済学、文明問題としてのエネルギー供給

もう一つの、資源の有限性を考慮した、いわゆる第三の経済学が今更ながら必要となってきた。話題のエコロジー経済学は、19世紀末には石炭枯渇を懸念した人々によって、もう一つの経済学として生み出されていたが、その後の石油の台頭とともに忘れ去られた。経済学は資源の有限性を取り入れるのを怠ったのである。
マルクス経済学、資本主義経済学のいずれも、地球資源の有限性を考慮することがなかった。しかし石油ショックの1970年代、
ニコラス・ジョージェスク=レーゲン、Nicholas Georgescu-Roegen, 1906-1994、「The Entropy Law and the Economic Process 1971」の著者として世界に知られる、難解な450頁ほどの著だが、など極く限られた人々は第三の経済学を構想していた。その中心思想がエントロピー論である。

経済のプロセスはエントロピー的である:
それは物質、エネルギーの生産も消費もしない、
ただ低エントロピーを、高エントロピーに変換するのみである。

ニコラス・ジョージェスク=レーゲン

第3の経済学から


ここで重要なことは「資源は質が全て」、その質とは濃集、エネルギー資源にとって最も大切である。これは「ゴミは資源」という標語にも当てはまる。徒に循環資源、ゼロエミッションなどといってはならない、ゴミから有用物質を資源として取り出す、つまる濃縮するには必ず相応量のエネルギーが必要だからである。論理的に十分考慮されないリサイクルは、かえって環境負荷が増大する可能性すらある。

循環社会:大量エネルギーが必要

しかしエネルギーの消費量は依然増大している。日本においては産業は横這いであるが、民生、運輸の伸びが止まらない。

 


エネルギー需給構造(新エネルギー財団、NEF)

これに見るとおり、日本のエネルギー供給構造は先進国の中では輸入依存度、中東偏重が目立っている。

資源エネルギー庁の資料などでは、石油、天然ガスの寿命は数十年、石炭の寿命は一桁多いとされてきたが、これはエネルギーの質を考えない話である。すでに石油ピークが懸念され、天然ガスも先が見えてきた。一方ウラン資源も有限であること、忘れてはならない。準国産エネルギーなどと原子力関係者はいうが信じてはならない。
資源の本質とは「濃縮」である。海水ウランも、この意味でとても資源と言えない。何故なら、濃縮に莫大なエネルギーを必要とするからである 自然エネルギーが思ったほど前進しないのも、同じ理由による。

 

エネルギーの寿命予測の例(新エネルギー財団)


世界のエネルギー資源量:総合エネルギー統計(資源エネルギー庁)

かってシェル石油の技術者K.Hubbertは、1956年アメリカの石油精算は1970年ころにはピークを打つと述べた。当時各界から大変な反撃を受けたが、事実アメリカの石油生産量は1970年をピークをうったのである。Hubbertは正しかったのである。この石油生産量の予測曲線のピークを、その後Hubbertピークと言い、カーブをHubbert曲線と呼んでいる。Hubbert曲線は過去の石油生産量と、可採埋蔵量から決める。これらは膨大な統計的なデータに基づくものであるから、その信頼度は高く、単なる予想ではないのである。

 

世界の石油生産量:過去と未来、Hubbertピーク(Campbell

最近、この考えが世界規模の石油生産量予測に応用されている。本小論では石油地質学者C. Campbellなどを引用した。Campbellの例ではピークが2004年となっている。勿論この曲線は滑らかであるので、2004年という年度にそれ程大きな意味があるわけではないが、石油減退が意外に早いと理解すべきである。

 

世界の石油生産量:Hubbertピーク(Duncan)


産油国42カ国について、Hubbertピ−ク、資源量その他は詳細に調べられている。

世界の42主要石油生産国:Hubbertピーク他(Duncan)

 

事実20世紀の最後の四半世紀、石油発見量は消費に追いついていない。近年の限界まで進歩した石油探査技術を持っても、新しい巨大油田は発見されない。近未来の石油生産量の低減は、いずれ起こるべくして起こるのである。資源は有限なのである。このことは天然ガスにおいても同じである。一方、原子力の燃料ウランも地質的に濃縮された、地下資源の一つに過ぎない。このことも改めて認識すべきである。高速増殖炉が本格的に実用化したとしても、そのエネルギー量は石炭と同程度である。繰り返すが、海水ウランなどはその濃縮に膨大なエネルギーを要する。

石油の発見と消費量

石油の発見量と産出(ボーイズ)

 

極めて長い時間の流れでは、現在は化石燃料時代と言ってもよい。未来のエネルギー供給が人類の未来を左右する。

 

人類の文明とエネルギー(原図K.Hubbbert, オレゴン州知事)


3)これからの文明的な課題としての再生、自然エネルギー

 

少ない再生可能エネルギー源(DOE)


人類が最後に頼らざるを得ないエネルギー源は、自然エネルギー、再生可能エネルギーである。人類はこの範囲内で活動するしかないが、石油の代わりにはとても成り得ない。人類は「エネルギーピーク」に備えるべきである。
先ず浪費をしない、自然と共存する道を探すしかない。そうすれば地球温暖化など地球規模の環境問題、現代社会の象徴であるゴミ問題など自ずから解決しよう。科学技術はそのために発展させるべきである。


4)農業は自然と共存する道を選ぶべきである
現代農業は石油に浮ぶ。人工的な化学肥料、殺虫剤などの農薬は石油から作られる。またトラクターなの農業機械などは石油燃料で動く。従って石油供給不安に晒されると、現代人の食が持続出来ない。

 



石油に依存する現代農業、そして環境汚染


現代農業は集約、単作、画一的なアメリカ型である。これがいま問われている。自然と共存できない、土壌を破壊する。このため更に大量の農薬が必要になる。現代工業化社会は効率を最優先するもの、より人手を少なくすることが善とされてきた。余った労働力は都市の工場に吸収されてきた。その労働力は大量生産型の社会を支えてきたが、生産能力は過剰となった、需給のバランスが根底から崩れている。そこで国の指導層は国民に消費を促すが売れない。もう日本国民は欲しい物がないのである。そこで彼らは物を出来るだけ早く陳腐科し捨てさせようとする。

要らない物を買うのを、昔は無駄遣いといった。そしてすぐ捨てるこはいけない、と教えられた。しかし今はそうではない。国は膨大な借金をして不要な橋、道路を造ろうとする。無駄な公共事業をする。しかしこれも元を正せば国民が政治家を通して強請るからである。これを甘えの構造という。この仕組みは持続可能ではない。そしていつの間にか日本の食料自給率は40%を切った。日本人は自分の食べる物すら自分で作れないのである。それすら石油漬けである。

減少する日本の食料自給率:国際比較(農水省)

食料自給率と農用地:国際比較(農水省)

 

一方、石油から作られた大量の化学肥料、農業などはいずれ川、湖、そして海に流れる。広域の環境汚染源、富栄養化の原因となる。現代農業は食料供給をだけでなく自然環境をも広域に破壊する。この意味でも現代農業は持続的でない。日本の40%以下の食料自給率は危機的である。



日本農業の実態(ボーイズ)


加えて、各種農薬は食品そのものを汚染する。食糧の流通、加工における不自然な人間の行いが、食に対する不信感を増大している。今や食は拝金主義の、金儲けの手段以外のなにものでもなくなった。

21世紀は食の安心、安全が我が国の緊要な課題となってる。どこの先進国にもない、農業従事者の世界に例を見ない老齢化は日本社会の異常さを象徴している。
だが為政者には今も本質が見えないようである、米からエタノール、バイオエネルーをという。 しかしこれは基本的に間違っている。石油漬けの農産物を車の燃料としてはならない、車に食料を奪われてはならないからである。

日本

フランス

イギリス

35歳未満

2.9

28.2

31.7

35-44

7.1

28.3

22.2

45-54

14.6

26.8

22.0

55-64

24.2

12.7

16.3

65歳以上

51.2

3.9

7.8

農業従事者の年齢分布(%):国際比較(ボーイズ)


5)浪費社会からの決別−物から価値へ
大量生産社会の決別が、持続型社会構築への避けられない第一歩であるが、これには自然環境、エネルギー、農業、健康、生態系に関する科学的真実を知る必要がある。日本の物流は、見える物流、見えない物流を総合すると、57億トン/年に上る。根本的な大量生産型社会、浪費構造の見直しが必要である。

日本の物流、見える物流と隠れた物流(環境省)

「物が売れない」、これを為政者、指導的な学者、エコノミストは良く見つめるべきである。国民は無駄社会に未来がないこと、いつまでも橋、道路を作り続けることの空しさをもう知っている。今のままでは21世紀の持続可能性などあり得ないとを悟り始めた。世論調査にもその事が現れており、物の豊かさより心の豊かさを求める人が、国民の3分の2に達した。
 


変化した日本人の豊かさ意識(内閣府)

しかしどうすればよいかが未だ分からない。21世紀の歩むべき方向が見えない。無駄社会は脱却しなければならないが、そうかと言って江戸時代に戻るわけにも行かない。人間は明日が見えるとき、現在を堪え忍べる。しかしそうでないとき、如何に物が豊かであっても不安になるものである。いまの日本がそうである。大量生産社会へ邁進するアジアの人々が、常にグローバルな経済の仕組みに翻弄される。常に勝たねばならない、敗者は勝者に呑み込まれるだけの、勝者が全てをとる“Winner Takes All”の社会、剥き出しの資本主義社会は常に人々を不安にする。この社会は地球資源を大切にするゆとりを生まない。

日本はまだ余裕がある。国民も本質を理解し始めた。アメリカ主導のグローバリゼーションに呑み込まれない知恵と力を、アジアに発信するのである。もう地球の石油に限りが見えてきた。人類は地球の森林を徹底的に消費し尽くし、今度は石油であるが、まだ条件は悪くはなったが、半分残っている。自然と伴に生きる社会とは、浪費社会からまず脱却するのである。自然のともに生きる農業、食文化の構築である。もう欧米から知の独立の時である。

持続可能な環境保全型文明

 


6)参照
  「豊かな石油時代が終わる」2004、日本工学アカデミー・環境フォーラム(石井吉徳編著)、丸善

  「石油最終争奪戦ー世界を震撼させる「ピークオイル」の真実」、2006、日刊工業新聞社

  「石油ピークが来た―崩壊を回避する「日本のプランB」 2007-10 日刊工業新聞社

  「(知らなきゃヤバイ) 石油ピークで食糧危機が訪れる」 2009−9 日刊工業新聞


  国民のための環境学(石井吉徳著、2001、愛智出版、並びに個人ホームページ)
  
誰が日本を養うのか(アントニーFFボーイズ 2002)
  
もう一つの石油生産量に関する研究
  
100万人科学者・技術者代表者集会─第 13 回シンポジウ
  
科学技術連合フォーラム


inserted by FC2 system